噎ぶ。
私は、自分に何をしたら満足できるのか、よく知っている。
でもそれすらできない時もある。
全てが徒労に思える日、私は布団に潜り込んで思考を巡らす。
自分が布団から出ない口実を作る。そうして一日を終える。(その都度、“偶にはこんな日があってもいいだろう”と結論づけるのだ。実際には偶にというに相応しくない頻度で訪れるというのに。)
自分自身で自分を満たすことができるとき、私は迷わずに行動する。
散歩に出かけたり、部屋を片付けたり、珈琲をいれて寝転んだり、ベランダで煙草を吸ったり…
最近は些細だけれど、自分にしては丁寧な暮らしを心掛けている。それをここに記して置くことでまた自己が充たされる、許される気がする。
まず朝目が覚めたら2、3度故意的に寝返りを打つ。なんとか体を起こして、カーテンを開ける。
そしてしっかりと房掛けにまとめたら、ベランダに出て深く息を吸う。
冷たい空気で肺がおかしくなる心持ちになりながらまた吸う。
家から出る用がなくとも外出できるような服装に着替える
ベッドメイキングをする
洗い物はすぐに片す
料理の際にエプロンをする
帰宅したらきちんと靴を揃える
使った物は元に戻す
人様からしたら『なんだそれ当たり前だわ』と一蹴されても不思議ではないが、私にとっては凡そ丁寧に値することである。
そうしたってしなくたって、どちらでもよい。
でもやったら少し自分の気持ちがよくなる。
そういった“自分の機嫌取り”をうまくコントロールすることでなんとか生きながらえている。
だけれどもそうしている間に日毎に“自分”と“それをコントロールする自分”に意識が分断されて、後者の方に自身の精神が偏り生命生活全てに於いて前者がハリボテのように思えてきてしまった。
私は私の操作に慣れすぎてしまって、ペットを飼い慣らすように私を私の中で飼い慣らしている。
これは果たして正しいのか。
途端に生まれた疑心によって、身動きが取れなくなってしまう。
そうして私はまた布団に潜り込んで、思考する。
答えなどでない。答えなどない。
自分自身を分析しすぎてしまうと、もはや自分では無いものとして認識してしまう。
私がひとりで分析できるのは、ジョハリの窓でいう“open self”と“hidden self”の領域だけであり、むろんそれで私という人間は説明ができないというのに、それなのにそれが全てのように思えてしまう。それだけで説明がつく人間になってしまう。
兎も角、常に精神と肉体が分離してお互いにどこか他人事なんだ。