ぬくもり

あたたかくして寝よう。

傍にある

 

枕元に置い黒い影が立っている

私をじっと見下ろしている

 

絶望の気配がする

 

 

元彼に振られて半年以上経過して、もう殆ど思い返すことなどなくなった。彼のことをずっと人間として好きだったが、この先の長い時を共有できる相手ではなかった。彼も同じ認識だった。そんな私も今はもう新しい人と交際していて、当然にその人を愛している。

私は未来のことを考えて怖くなる。

今までの別れ話は相手から切り出されていた。明確な発端もなく、喧嘩別れでもなく、いつもの調子で私に別れ話を切り出してどこかに行ってしまった。私はその度に悲しくて、恥ずかしくて、情けなかった。彼を手放しに愛してた自分が酷く愚かに思えて、過去の自分を叱責した。

今まで付き合ってきた人になんの過不足もなかった。優しい人たちだった。だからこそ私は今怖くてたまらない。あの瞬間がいつ訪れるか分からない、そんな恐怖に苛まれている。

他人の言動で感情が突き動かされるのに疲れているのに、自分に向けられる好意で湧き上がる喜びを否定できない。

彼の人柄を好きになって、性格が愛おしくなって、そんな自分の大好きな人も、結局は一方通行だということを知っている。

せめて、私があなたに迷惑をかけないように努力をするくらいしか。

徘徊

久しぶりに早上がりだったので すこし寄り道をしながら帰った。

 

もうずっと、外を歩く時はもっぱら音楽を頼りにしていたしマスクは無論付けっぱなしだった。

夜だし人通りも少ないし許されるかな、とイヤホンもマスクも外して歩いた。

 

 

 

自転車のマーク

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在り来りなスローガン

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名も知らぬ花

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蛍光灯

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いくらなんでも写真がブレすぎだろとか、適当すぎる画角とかは無視して欲しい。

 

 

鈴虫の鳴き声とか檜の香りが 雨上がりの湿った空気で運ばれてきた。

近くを流れる川の音、地面をタイヤが滑る音、それら全てが心地よかった。

 

夜の京都は暗い。暗いし静かで、野良猫が歩いてる。

夜の方が性に合っている。

 

近いうちに宛もなく散歩をしてみたいなと思う。

宛もなく、土地勘もなく、ただ続いているだけ道を辿っていきたい。

迷子になりたい。

夜と同化したいから、私は散歩をする。

死にたい人間は、そうでない人間の気配が分かる

 

微かな執着心で生きていたのに、今の私はもはや何にも執着していない。

取り留めのない生活を意味無く送り続けていて、愈々終わりが近いことを悟る。

勉強して 働いて 稼いだお金で過ごして その流れはもはや作業のようなもので、私は機械のようにそれをこなすだけだ。

別にやる気なんてないし生きがいなんて大層なものも持ち合わせていない。

 

好きな人がいた。いたし、いる。

でもあの人を好意的に思えば思う程(あぁ、私の人生とは縁遠いひとだ)と気づく。

あの人はきっと底を知らない。絶望を知らないと思う。別に私が不幸なのではないし、絶望にも種類がある。ただあの人は何かに絶望したことがないのだろうな、なんて思う。勿論推測でしかないけれど。死にたいとかも、思ったことなさそうだな。と思ってまた悲しくなる。

私はもう、“底”をみた人間しか本当の意味で心を寄せられない。

 

寝る

 

随分と梅雨が長引いたからなんだかしっくりこないけれど、気がついたら7月も暮れに入っていた。

私はもうずっと、同じ日常を繰り返している。

 

散歩して  お酒を飲んで

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偶に花火をして  煙草を吸って
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又散歩する
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そして制作をする。

毎日それ、毎週それ。

まれに人と会っては食事をする。

正直自分に何も興味無いから生活なんてどうだっていいし窓から身を乗り出してコンクリの地面を見つめたりするくらいしかやることがない。今の私の制作も将来に繋がっているとは思えないし、繋がっていたとてそれは本当にどうだっていい。(未来でなにか過去の事象をこじつけてもそんなの結果論でしかない)

それでも毎日欠かさず写真を撮ってる。今の私に出来ることはこれくらいだ。

生きる理由のないことが死ぬ理由として充分すぎる気もするが、それが完遂できずにこうして居るのだからまぁ暫くは写真でも撮ってやりくりするしかないなと思っている。

気分が落ちた時は一日中ベッドに横たわって布団にくるまっているのが1番いい。

 

今日もそうしたいけれど夕方から普通に働かなくてはならないので、それまでは少し眠ろう。

ぬるい

過去を記憶として会得するまでに随分と時間がかかる性分で、私はいつも置き去りにされる。

 

 

写真や買ったものは確かにあるのに、自分がその時を過ごした実感がいつまでもなくて、夢か幻か何かかと思ってしまう。ぽっかりと穴が空いたかのように、まるでその瞬間の記憶を失ってしまったかのような心持ちになる。

時間も人も待ってくれなくて、ただその瞬間に切り取った破片だけが部屋に点々と残っているから不安で仕方がないのだ。怖くて寂しくて堪らなくなる。

早ければ数時間、1日2日で記憶として昇華できる場合もあるけれど、1ヶ月、1年経ってもほわほわと気持ちが定まらない事もある。

 

置いてきぼりだ。

 

写真を見ると不思議な気持ちになる。

直接的に当時の情景を想起させるのに、自身の経験とは思えないような、何処か他人事のようで。

あの時、あの場所に私は本当に居たのだろうか。

私はちゃんと存在していたのだろうか。

私が写真を撮り続けるのは、いつも不安だからなのだと思う。疑っているからなのだと思う。自分の存在を。

だから目に入るものを4:3の枠の中に収めて、それで安心する。私はちゃんとその時を生きていたのだと確信する。

写真は、私の記憶と存在を担保してくれる。

いつからか私は、自分の頭で記憶することを諦めてしまったのかもしれない。

 

 

人のぬくみ、声音、匂い、風のおと、雑踏、やけに眩しい街灯。第六感に畳み掛ける何か。

時間は待ってくれない。人も、何もかも、待ってくれないというより、ただただ進んでしまう。能動的な現象。私が遅い。いつも遅い。もうちょっとゆっくりしていってよ。

別れの唐突さに鈍感でありたい。辛いから。

過去ばかり見てしまうのは、過去に置いてきたものが多すぎるからだ。

拾い上げる前に私はどんどんどんどん引っ張られて先に進んでしまって、確信を持てないままここまで来てしまった。

この先もきっとそう、そしてどんどん磨り減っていく。

 

 

数年後、今現在続いている形だけの逃亡劇に終止符を打つことにした。

未来に期待してる。

 

 

噎ぶ。

 

私は、自分に何をしたら満足できるのか、よく知っている。

 

でもそれすらできない時もある。

全てが徒労に思える日、私は布団に潜り込んで思考を巡らす。

自分が布団から出ない口実を作る。そうして一日を終える。(その都度、“偶にはこんな日があってもいいだろう”と結論づけるのだ。実際には偶にというに相応しくない頻度で訪れるというのに。)

 

自分自身で自分を満たすことができるとき、私は迷わずに行動する。

散歩に出かけたり、部屋を片付けたり、珈琲をいれて寝転んだり、ベランダで煙草を吸ったり…

 

最近は些細だけれど、自分にしては丁寧な暮らしを心掛けている。それをここに記して置くことでまた自己が充たされる、許される気がする。

 

 

まず朝目が覚めたら2、3度故意的に寝返りを打つ。なんとか体を起こして、カーテンを開ける。

そしてしっかりと房掛けにまとめたら、ベランダに出て深く息を吸う。

 

冷たい空気で肺がおかしくなる心持ちになりながらまた吸う。

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家から出る用がなくとも外出できるような服装に着替える

ベッドメイキングをする

洗い物はすぐに片す

料理の際にエプロンをする

帰宅したらきちんと靴を揃える

使った物は元に戻す

 

人様からしたら『なんだそれ当たり前だわ』と一蹴されても不思議ではないが、私にとっては凡そ丁寧に値することである。

そうしたってしなくたって、どちらでもよい。

でもやったら少し自分の気持ちがよくなる。

そういった“自分の機嫌取り”をうまくコントロールすることでなんとか生きながらえている。

 

だけれどもそうしている間に日毎に“自分”と“それをコントロールする自分”に意識が分断されて、後者の方に自身の精神が偏り生命生活全てに於いて前者がハリボテのように思えてきてしまった。

私は私の操作に慣れすぎてしまって、ペットを飼い慣らすように私を私の中で飼い慣らしている。

これは果たして正しいのか。

途端に生まれた疑心によって、身動きが取れなくなってしまう。

そうして私はまた布団に潜り込んで、思考する。

 

 

答えなどでない。答えなどない。

 

 

自分自身を分析しすぎてしまうと、もはや自分では無いものとして認識してしまう。

私がひとりで分析できるのは、ジョハリの窓でいう“open self”と“hidden self”の領域だけであり、むろんそれで私という人間は説明ができないというのに、それなのにそれが全てのように思えてしまう。それだけで説明がつく人間になってしまう。

兎も角、常に精神と肉体が分離してお互いにどこか他人事なんだ。

 

 

 

この家を出る。

私が産まれてから18年と6ヶ月が経った。

 

 

少し昔の話をする。

私は随分と“大人しい”子供だった。

赤ん坊の頃からギャンギャン泣いたりすることはなかったようだし、所謂イヤイヤ期にも暴れたり奇声を発したり泣き喚いたりはしなかった。

かといって特段人との関わりを苦手としている訳でもなく、幼稚園に通いだしてからも友人とおままごとやプリキュアごっこ、公園を駆け回ったり、至って人間関係の構築にはなんら苦労をしていなかった。

 

今思うと、当時よく言われた“大人しい”というのは、“感情の起伏が他の子に比べて乏しい”という意味だったのかもしれない。

というのも、笑ったり泣いたり、怒ったり、そういう単純な感情表現を私はあまりしていなかったからだ。

むろん楽しい時は笑うし悲しいことがあると落ち込みはするが、決して駄々を捏ねたり思い通りにいかなくて叫んだりはしなかった。自分で言うのもなんだが、3、4歳の子供にしては随分と聞き分けがよかった気がする。

ママ友たちで家に集まった時も、私以外の子はさっと食事を済ませて家中駆け回っていたが、当の私はと言うと1人でのんびりとご飯を食べていた記憶がある。(当時の心情は計り知れないが、もしかしたらキャーキャー騒ぐ友人らをどこかで馬鹿にしていたかもしれない、私のことだから)

幼い頃からのその達観とした態度は歳を重ねる毎に洗練されていって、今の私に至る。

 

 

…………はずなのだが、その人格形成はどこかでUターンしていたのかも知れない。

私は子供の頃に比べ、随分と聞き分けの悪い頑固で自分勝手な性格になった。

Who am I - ぬくもり でも述べたが、「しっかりしている自分」を隙なく確立していくことに自己の価値を見出すようになって、しっかりした自分が完成したけれど誰もその根本に気がついてはくれない、自分を縛るだけの呪文に成り果てている事実を突きつけられてからというもの、やりたい放題である。イキリまくりである。

「おいらはまともじゃないぞ……!まともを振舞っているけどな!」みたいな“イタさ”を醸し出すものの長年の「ちゃんとしなくては精神」が捨てきれず私のゴミメンタルは両者の狭間でもはや息をしていない。

というか単純に“つまんねぇ人間”になってしまった。

まだ「しっかりを繕ってるけど私は頑張っているんだぞ……!」時代の方が健気さがあって救われる。今の私はただの““クズ””に他ならないので人権も何も無い。

 

 

兎も角、人生で最大限イキった結果、私は家を出ることにした。

 

反対されたし脅されたしキレられたけども殴られはしなかったし、私の渾身の真顔+地方への意欲を連日突きつけられた両親は折れて進学を支援してくれるようになった。

そもそも親は私が管理下にいなくなることを恐れていただけである。私がどこへ行って何をするのかという事には大して興味ない。

甘えない分、褒められないし、何をしていようと特に言われはしない。私がやりたいことを否定してこないけれど、頑張りを見てくれる訳もない。当然か。(欲を言うと、たまには褒めて欲しかったな…なんて)

まぁこの家には姉がいるから。姉は私よりずっと甘えるのが上手いし親へちゃんとアピールをする。その分親も姉へはアクションを返す。この相互関係は私が入る隙間など1ミリもない。甘えベタでちゃんとしていて大人しい私にはどうにも難しかったようだ。最大限の皮肉は自分にしか帰ってこない。

 

心のどこかで寂しさを拭えないまま此処を経つ。

親は「卒業したら帰ってきなさい」

なんて言っていて、私も「うん」なんて相槌を打っているけれど帰らない気がする。もう此処にはほんの少しの愛着と記憶しかない。それもきっと薄れる。

 

もっと、自分に素直に生きていれば良かったな。

他人の目を気にして生きていくのは、角が立たないし好感だって簡単に得られる。けれどその存在はやっぱり少しづつ埋もれてしまって、都合がいいように消えていく。

今でも私は他人の目を気にしてしまう。どう思われているのか、どうしたら好まれるか、何をしたら感謝されるか…………阿呆、自分を第一に考えろ。なんてそんなのムリです。

でももっと人に頼りたい、迷惑をかけてみたい。ちょっと我を張りたい。思うがままに。

 

だから私は、