ぬくもり

あたたかくして寝よう。

この家を出る。

私が産まれてから18年と6ヶ月が経った。

 

 

少し昔の話をする。

私は随分と“大人しい”子供だった。

赤ん坊の頃からギャンギャン泣いたりすることはなかったようだし、所謂イヤイヤ期にも暴れたり奇声を発したり泣き喚いたりはしなかった。

かといって特段人との関わりを苦手としている訳でもなく、幼稚園に通いだしてからも友人とおままごとやプリキュアごっこ、公園を駆け回ったり、至って人間関係の構築にはなんら苦労をしていなかった。

 

今思うと、当時よく言われた“大人しい”というのは、“感情の起伏が他の子に比べて乏しい”という意味だったのかもしれない。

というのも、笑ったり泣いたり、怒ったり、そういう単純な感情表現を私はあまりしていなかったからだ。

むろん楽しい時は笑うし悲しいことがあると落ち込みはするが、決して駄々を捏ねたり思い通りにいかなくて叫んだりはしなかった。自分で言うのもなんだが、3、4歳の子供にしては随分と聞き分けがよかった気がする。

ママ友たちで家に集まった時も、私以外の子はさっと食事を済ませて家中駆け回っていたが、当の私はと言うと1人でのんびりとご飯を食べていた記憶がある。(当時の心情は計り知れないが、もしかしたらキャーキャー騒ぐ友人らをどこかで馬鹿にしていたかもしれない、私のことだから)

幼い頃からのその達観とした態度は歳を重ねる毎に洗練されていって、今の私に至る。

 

 

…………はずなのだが、その人格形成はどこかでUターンしていたのかも知れない。

私は子供の頃に比べ、随分と聞き分けの悪い頑固で自分勝手な性格になった。

Who am I - ぬくもり でも述べたが、「しっかりしている自分」を隙なく確立していくことに自己の価値を見出すようになって、しっかりした自分が完成したけれど誰もその根本に気がついてはくれない、自分を縛るだけの呪文に成り果てている事実を突きつけられてからというもの、やりたい放題である。イキリまくりである。

「おいらはまともじゃないぞ……!まともを振舞っているけどな!」みたいな“イタさ”を醸し出すものの長年の「ちゃんとしなくては精神」が捨てきれず私のゴミメンタルは両者の狭間でもはや息をしていない。

というか単純に“つまんねぇ人間”になってしまった。

まだ「しっかりを繕ってるけど私は頑張っているんだぞ……!」時代の方が健気さがあって救われる。今の私はただの““クズ””に他ならないので人権も何も無い。

 

 

兎も角、人生で最大限イキった結果、私は家を出ることにした。

 

反対されたし脅されたしキレられたけども殴られはしなかったし、私の渾身の真顔+地方への意欲を連日突きつけられた両親は折れて進学を支援してくれるようになった。

そもそも親は私が管理下にいなくなることを恐れていただけである。私がどこへ行って何をするのかという事には大して興味ない。

甘えない分、褒められないし、何をしていようと特に言われはしない。私がやりたいことを否定してこないけれど、頑張りを見てくれる訳もない。当然か。(欲を言うと、たまには褒めて欲しかったな…なんて)

まぁこの家には姉がいるから。姉は私よりずっと甘えるのが上手いし親へちゃんとアピールをする。その分親も姉へはアクションを返す。この相互関係は私が入る隙間など1ミリもない。甘えベタでちゃんとしていて大人しい私にはどうにも難しかったようだ。最大限の皮肉は自分にしか帰ってこない。

 

心のどこかで寂しさを拭えないまま此処を経つ。

親は「卒業したら帰ってきなさい」

なんて言っていて、私も「うん」なんて相槌を打っているけれど帰らない気がする。もう此処にはほんの少しの愛着と記憶しかない。それもきっと薄れる。

 

もっと、自分に素直に生きていれば良かったな。

他人の目を気にして生きていくのは、角が立たないし好感だって簡単に得られる。けれどその存在はやっぱり少しづつ埋もれてしまって、都合がいいように消えていく。

今でも私は他人の目を気にしてしまう。どう思われているのか、どうしたら好まれるか、何をしたら感謝されるか…………阿呆、自分を第一に考えろ。なんてそんなのムリです。

でももっと人に頼りたい、迷惑をかけてみたい。ちょっと我を張りたい。思うがままに。

 

だから私は、