ぬくもり

あたたかくして寝よう。

心根

自分に『これだけは譲れない』というものはあるだろうか。

 

なにも、難しく考える必要は無い。好きなお菓子は独り占めしたいとか、服を買うお店は絶対ここがいいとか、好きなアーティストはあの人だとか……そういう簡単なものから、あるいは命をかけても譲りたくないものまで。

分かりやすく言うと こだわり なのかもしれない。そういった執着にも似た信念は自分にはあるかな、なんてふと思った。こうしたい という意思は何処にでも転がっているけれど自分の命をかけてまで譲れないものはあるか。

 

正直なところ、今の私にはそこまでして明け渡したくないモノはない。何にも命をかけた執着をしていない現状はちょっと退屈だ。

以前の私には、絶対に譲れないものがあった(今ではすっかり失ってしまったが)。自分の命を捨てても守りたいという自己犠牲心は、その対象への執着をいっそう強くしていたと思う。譲りたくないものを携えて生きていた私は、今よりずっと生き生きしていた。その為に生きる、その為に頑張る、とある意味利用して自分を鼓舞して、そのものの為に生きていた。実に『生きている』心持ちであったし充実していた。

 

言ってしまえばその対象は人であった。私はその人を自分の命を捨てるのを厭わない程大切にしていた(先程も言ったように今ではすっかり失ったが)。

私の場合には対象が人だったから、一概には言えないかもしれないが、何か譲れないものがあるということは己をとても勇気づける気がする。

なんだっていい、それこそ最初に言ったような単純なものでも、私のように人でも、目標でも、これは絶対に誰にも譲れないぞというものがあると人を強くすると思う。

 

抽象的な表現になってしまったが、例えば死ぬまでに○○をしたい、なんてものも立派な譲ることの出来ない自分だけの目標で、それをもっているのともっていないのとでは全く変わってくるだろう。

それだけの強い意志が自分にあるというのは、とてもいい事だと思う。そういう心の根っこの、他人が介入できない部分がない今の私は、どうにもつまらない。なんのために生きているのか分からないといったところだろうか。本当になんだっていいんだ。なんだっていいから…と本来無理に作るべきではないが何か自分に譲れないものはあるかな……なんてこそこそあら捜しをしている。

でも、探したって出てくるわけもないと思う。そういう感情は、知らず知らずのうちに構築されていつの間にか自分の中に根強くいるものだ。だから今の私にできることはただただ日々色々なものに触れて見て経験して考えることだけだ。そうやって過ごしていれば屹度いつかまた『譲れないもの』は心に浮かんでくるような気がする。

そう信じて今は生きます。