ぬくもり

あたたかくして寝よう。

Who am I

 

 

 

幼い頃から「しっかりしてる子」とよく言われた。また「大人っぽい子」とも言われた記憶がある。

時間を守る、忘れ物をしない、礼儀正しく接する。自分では当然の行為も、時には周りからの賞賛を攫った。いつのまにか私は、「しっかりしている自分」を隙なく確立していくことに自己の価値を見出すようになった。

 

 

 

生活は単純であった。自分の身の回りのことをこなし、人に言われずとも動いた。すると周囲は私のことをまた「しっかりしているね」「えらいね」と褒め称えた。

私は嬉しかった。

 

けれどもそんな生活は長くは続かなかった。歳をとる度、関係が長く続く度、周囲は私の「しっかり」を当然のものとして扱うようになった。元よりそうなりたかったのだから思惑通りなのだが、何故か少し寂しくなった。しっかりするための私のささやかな努力のような何かが、蔑ろにされているような気がしたからだ。

しっかりとしている私は、取り立てて怒られることはなかったが、褒められる事もなかった。気がついたら、「しっかり」というレッテルが私に取り憑いていた。

「〇〇なら」「〇〇だから大丈夫だね」などと言われると私の心はいっぱいいっぱいになった。しっかりできない私を想像したら耐えられなかった。堕落したら私には何にも、これっぽっちの灰すら残らないから。

 

見事、この十数年で目標とした人間になれたものの、得られたのは自己への疑心のみであった。

 

自分とは何だろう。誰が決めるのだろう。誰のためのものなのだろう。

人格

実験で使っためだかを、研究が終わってからもなんとなくそのまま飼い続けている理系の大学院生に、『持って帰りな』と渡されたサンドウィッチが満員電車に押し潰されて死にたくなった。

風上で、歩きながら平然とタバコをふかすじじいを殺したくなった。

そんな今日。

 

私は日常に転がる些細な喜びを感じ取れる神経をもっている。しかしそれと同様に些細な苦しみにも敏感である。

故に感情の振り幅が人より大きい。

小さな喜びで満たされる容量が1GBほどの心はその中でぎちぎちに不要なデータが詰まってきて、もはやパンクしている。キャッシュクリアしたい。

しかも厄介なのは振り幅が大きいだけでなく振り切れるスピードが速すぎるところだ。

腹が立ってても何かいいことがあるとすぐ機嫌が治る。逆にるんるんな時も何か気に触ることがあるとすぐ不機嫌になる。まるで3歳児だ。自分でも自分の扱いにくさを日々感じているし、それをわかった上で感情が制御できなかった日にはとんでもない自己嫌悪で自分を100回以上殺す。頭の中で。

私は自分のことを誰よりもわかっていると自負している分、許せないことがあるけども、それを直そうとしないところまで理解してしまっているからなんだか人格がふわふわしてきてしまう。

『私という人間』を、私自身ではなくどこか他人事のように眺めている気分。

 

 

今日レモンを切っていて指から血を流した女の子は、私はてっきり包丁で切ってしまったのだと思ったけれど、どうやらもともとあったささくれにレモン汁がはねて血が出たらしい。

その言葉通り包丁には血は一滴もついてかったが、切り途中のレモンには血が滲んでいた。

レモン汁で血が出る…………

果たしてそんなことがあるのだろうか。

ググれカス。

 

ひとり

7月になった。

 

ここのところは雨が続いていて頭痛も日毎に辛くなってくる。

しとしと降る雨はなかなか止まなくて、体調もどんどん落ち込んでいくものの不思議と嫌いじゃない。

なんだかんだ私は雨の日が好きだ。むろん晴れの日も雪の日も好きだ。

寒いのも暑いのも、生温いのも涼しいのも結局嫌いになりきれない。自分でも変だなと思う。

 

 

久しく投稿をしてなかったが、下書きにはどっぷりと私の思想が蓄積されている。

今日は、私の心配の種でもある一人暮らしについて話したい。

 

今現在私は家族4人で暮らしている。

来年、希望通りの進学先へ行けたら私は此処を離れることになる。

そして1人での生活が始まる。

 

私が心配しているのは、生活面ではない。

炊事洗濯などの家事全般は難なくこなせる自信がある。私は家族の誰よりも早く起きて作業をしているし、ご飯も自分で準備しているからだ。帰りはいつも1番遅いし、今の生活からして1人であろうとなかろうと、何も問題がないとは思う。

バイトしつつ勉強もして、うまく一人暮らしを成り立たせられる自負があるものの、唯一心配なのはメンタルである。

 

時折、1ヶ月、または2ヶ月に1回、無性に寂しくなる。

そこに物理的な存在は関係していない。同じ屋根の下家族がいる、その事実とは干渉なくただただ途方もない寂しさを感じる。

言葉ではうまく表現出来ないものの、そういった感情があるのは確かで、さらに言えばその寂しさの原因も、それを埋める方法も、何もかも分からないから困る。

 

でも決まって寂しくなるのは、何か考え事をしている時や何もせずぼーっとしている時だから、きっとそれが関係しているだろう。

私は何かと考え込む癖があるが、それは多くが答えが出ないもので、ただ自分の中でぐるぐると回り続けるだけだ。時間にも心にも余裕ができた途端何もせず考え事をしてしまい、その結果なんだが寂しくなるのだ。

『考え込む内容』はその時々だが、大抵どうしたらもっと効率よく物事を進められるかとか、生きていく目標は何にしようとか、課題をいつまでにどうやろうかとか、明日のご飯は何にしようとか、そんなことである。

いろいろ考えているうちに、『人生ってなんだろう』とか『私にとって幸せってなんだ』とか『死んじゃったらどこ行くのかな』とか……果ても無い哲学的な世界に行ってしまう。

 

そうこう思考をめぐらせていると、途端に寂しくなる。

そして寂しさを解消できないままその晩まで引き摺って、布団にくるまって悶えるのがオチだ。

馬鹿だな。

と自分でも思うが、考え込むのは私の習性だろう、もう仕方ないと諦めている。

だから私は寂しさを埋める方法を編み出したいと思うのだ。

 

一人暮らしは、とても自由なものだと思う。

好きな時間に、好きなことが出来るから。

何をしても、咎める人がいないから。

マイペース。マイペース。マイペース。

のほほんと、自分が自分に合わせて生活出来るのはいいな…と思うけど、その分怠けてしまいそうだなとも思う。少し怖い。

自由というのは、それだけ自分への責任が重くなる。

家族と暮らすというのは、或る意味お互いを牽制し合っていると思う。他人と暮らすのは、自由であって自由でないからだ。そこに必要なのは『協調』に他ならない。

自分が好きなことを家族全員がやったら、その家庭は崩壊してしまうだろう。

今でこそその環境に置かれていて、節度を持ち生活しているが、いざ一人で暮らすとなったらどうなるのだろう。

私は今のように、ちゃんと生活を送れるだろうか。

自分を律することはできるだろうか。

とまた考えてしまう。答えなど出ないのに。不安になって、もんもんと深くまで考え込む。全て杞憂であれば良いと願っている。

でも全て自分次第なのだ。

それがまた私の不安を煽る。

 

 

こうして私は愚かにもまた眠れぬ夜を過ごすのだが、結局突如襲いかかる正体不明の寂しさを解消する方法は分からない。

一体何が足りないんだろうな。

 

 

心根

自分に『これだけは譲れない』というものはあるだろうか。

 

なにも、難しく考える必要は無い。好きなお菓子は独り占めしたいとか、服を買うお店は絶対ここがいいとか、好きなアーティストはあの人だとか……そういう簡単なものから、あるいは命をかけても譲りたくないものまで。

分かりやすく言うと こだわり なのかもしれない。そういった執着にも似た信念は自分にはあるかな、なんてふと思った。こうしたい という意思は何処にでも転がっているけれど自分の命をかけてまで譲れないものはあるか。

 

正直なところ、今の私にはそこまでして明け渡したくないモノはない。何にも命をかけた執着をしていない現状はちょっと退屈だ。

以前の私には、絶対に譲れないものがあった(今ではすっかり失ってしまったが)。自分の命を捨てても守りたいという自己犠牲心は、その対象への執着をいっそう強くしていたと思う。譲りたくないものを携えて生きていた私は、今よりずっと生き生きしていた。その為に生きる、その為に頑張る、とある意味利用して自分を鼓舞して、そのものの為に生きていた。実に『生きている』心持ちであったし充実していた。

 

言ってしまえばその対象は人であった。私はその人を自分の命を捨てるのを厭わない程大切にしていた(先程も言ったように今ではすっかり失ったが)。

私の場合には対象が人だったから、一概には言えないかもしれないが、何か譲れないものがあるということは己をとても勇気づける気がする。

なんだっていい、それこそ最初に言ったような単純なものでも、私のように人でも、目標でも、これは絶対に誰にも譲れないぞというものがあると人を強くすると思う。

 

抽象的な表現になってしまったが、例えば死ぬまでに○○をしたい、なんてものも立派な譲ることの出来ない自分だけの目標で、それをもっているのともっていないのとでは全く変わってくるだろう。

それだけの強い意志が自分にあるというのは、とてもいい事だと思う。そういう心の根っこの、他人が介入できない部分がない今の私は、どうにもつまらない。なんのために生きているのか分からないといったところだろうか。本当になんだっていいんだ。なんだっていいから…と本来無理に作るべきではないが何か自分に譲れないものはあるかな……なんてこそこそあら捜しをしている。

でも、探したって出てくるわけもないと思う。そういう感情は、知らず知らずのうちに構築されていつの間にか自分の中に根強くいるものだ。だから今の私にできることはただただ日々色々なものに触れて見て経験して考えることだけだ。そうやって過ごしていれば屹度いつかまた『譲れないもの』は心に浮かんでくるような気がする。

そう信じて今は生きます。

共依存

私の人格はどこか変だ。

 

私は私の心の奥底まで誰かと共有したいとは思わないけど、でも本当は私の全てを認めて欲しいと思ったりもする。腹に潜んでる感情は私自身に他ならなくて、それを認めてくれるということはつまり私という人間のことも認めてくれることに繋がるからだ。肯定感が低い私は他人に依存している。

また、1人で何かをして楽しむことが苦手な人間は寂しい人間で、それにまるっきり当てはまっている。誰かと一緒でないと楽しめない、というのはあまりにも寂しい。寂しい。

それらを全て分かっていても、どうしたらいいのかは一向にわからない。私は自分を認めてあげることができない。どうしても評価をすべて他人に委ねる。だからいくら頑張っても評価されなかったら私は価値のないものに落ちこぼれて死にたくなる。

一応趣味と呼べるものはあるし、特技だと言えることもある。気になることには手を出してきたし色々なことを試したりもしてきたが、それは全て認めてもらう自分のためにすぎない。自分のために頑張れない。他人に好かれる、認めてもらう自分のためにしか頑張れない。この差は大きいと思っている。なんの見返りもなくただ自分のためにひたむきに努力できる人を尊敬しているし羨ましいなと思うけれど、その反面私には死んでもそんなことはできないと確信している。

共依存がよくないのなんてとっくの昔に知った。知ったけど、でもどうしたらいいか分からない。どうにも出来ない気しかしない。自分を好きにはなれないし、認めてもらうことなく生きていくこともできそうにない。

 

私には姉がいる。もう社会人の姉だ。

姉は、赤ん坊の頃にはよく泣いたし、ワガママも言って、いかにもこどもらしい、そういう子だったらしい。あとから生まれた私は、ぐずって泣くことはほとんどなく、ワガママも言わずに自分で何かとやる子だったらしい(もちろん記憶などないが)。もしかしたら、私のこの性格は先天性だったんじゃないかな……とか思っている。自己肯定感が低く、他人に迷惑をかけない最前の方法を意識の範囲外で探っていたのではないか、と。それならいいのだ。それならそれで。

兎に角私は自己を大切にできない。

これを変える為には、根本的に"何か"を変えなくてはならない。

それが一体何なのかは、いつ分かるのかな。

 

 

飾る

私は以前、お付き合いしていた人に 「付き合う前の方がよかった」と言われたことがある。

当時はそんな言葉をかけられて、私は意味がわからなかった。互いの気持ちを確認し合って付き合う、となった以外に変化などなかったからだ。けれど彼にとってその変化は大きかったらしい。その根底に潜むものを、彼と別れて数年経った今になって分かった気がする。

 

彼とは昔からの知り合いで(といっても幼なじみではないのだが)、私と同じように絵を描くことが好きで、好きな曲もアニメも共通点が多くよく話をしていた。互いに好きなことを共有し合うのはとても楽しかった。

同じ学校に進み、2人で美術部に入った。

前々から仲が良かった私たちは、一緒にいる時間が増えたことで更に拍車をかけ親密になった。

学校が終わっても腐るほどメールのやり取りをしていたある日、彼から告白された。私は正直彼を"そういう目"で見たことはなかったが、二つ返事で承諾した。(思えばこの時の私の考えなしな返答が後々彼を苦しめたのだ。)

暫く、付き合ってからも特に変化なく過ごしていたが、ある日突然「付き合う前の方がよかった」と、あの言葉を言われたのだ。

私は付き合ってからも、前と変わったところなどないと思い、何故そう思うのか聞いた。すると彼は「なんていうか前はもっと、ずばずばしてたじゃん。なんかよそよそしくなったよね。」と言った。私には全くそんな気はなかったのだから心外だった。よそよそしくなったとはなんだろう……考えてもその時はどうしたらいいのか、どうしてそうなったのか皆目見当がつかなかった。

 

つい最近、「自分をさらけ出せるのは好きじゃない人の前だけ」という話を聞いた。好きな人の前では、相手を意識して自分を取り繕うけど、そうでない人の前では自由で、媚びないから魅力的に見えると。

私はきっと、彼とお付き合いを始めたことにより、彼をそういう目で見るようになって(自分が意識していなくても)自然と取り繕っていたのだろう。それが、彼からしたらよそよそしくなった と感じたのだろう。

 

愛的な好きな人、友として好きな人、嫌いな人……カテゴライズした周辺の人間に対する接し方は大きく違うのだと、今ならわかる。単純だけど、気がついていなかった。自分の態度は相手によって変わる。友として好きな人を、いきなりパートナーとして好きな人に移行させるのは難しい、と私は思う。私のような人間でなければ、一概にそうとも言えないのだろうけど。

兎に角、飾らない自分というのは、好きな人の前ではなかなか出せないというのが、ココ最近ようやっとわかった。

クズ

自分がクズだなぁと思う時は、どんな時だろう。

嘘をついた時?約束を破った時?困ってる人を見て見ぬふりした時?やること放ったらかしにして遊ぶ時?他人の愚痴を吐いている時?

何にしろ、誰でも「うわ、自分クズだ」って思う瞬間はあるんじゃないか。ない人がいたら私の理解の範疇に及ばず恐ろしくて絶対に会いたくない。

兎も角、私は日々自分クズだなぁと思いながら生活をしている。課題やりたくね〜ってグズってたり、いつまでも布団にだらだらとくるまっていたり、ヒトの嫌いなところを見つけて責めたり…発端は至る所に転がっている。人生で毎日毎日何かを試されている気がする。この状況で、お前はどうする?とそんな風に誰かに挑戦状を突きつけられて生きている。気がする。

私は自分がクズであると自負して、その上で解決策を練ることも無く只思うがままに生きているとんだクソ人間だが、もうどうしようもないと思っている。性根は変えられない。言い訳かもしれないがもう変えられないところまできている。

 

ところで、GWが明けて初めての平日が到来したが、世の中の人はどう思っているのだろう。もちろんGW中働いていた人だっているが、これは"GWがまるっきり休みだった"人に問いたい。10日間のお休みでどこかへ旅行へ行った人もいれば家にずっといた人、友人と出かけた人、恋人と会った人、それぞれ何かしらして過ごしたに違いない。自分が好きなことをしたであろうこの連休が過ぎ去った以上、学校へ行ったり会社へ行ったり、元の日常が帰ってくるがそれにきちんと適応できるのだろうか。私はできそうにない。私はGW最後の3日間しか休みがなかった。つまり3連休だったのだが、その間家の片付けをしたり、出かけたり、家でまったりとそれなりに寛いで休みを堪能した。たったの3日間であったのに、今日朝起きて準備して家から出るのにも物凄い体力(と気力)を要した。

これ、10日間休んでた人大丈夫なの……?

と心の底から思った。ここまで書いてはたと気づいたが、学校や会社が楽しい、好きだと思っている人にとっては全く問題なく今日を迎えられているのではないか。私がこんなにも苦しんでるのは普通にがっこーが嫌いだから。なんと簡単な答えだろう……。

正確に言えばがっこーは好きだ。がっこーで学ぶことは好きだ。でもがっこーに行って人と関わるのは嫌いだ。面倒だから。それだけなのだ。

通学の電車内で、がっこーにいきたくないという一心で書いたが、答えは単純すぎるし今更だし、つまらないな。毎朝それなりに早く家を出てるのに今日も満員電車に押し込められて、絵画の課題のエスキースはくしゃくしゃになっているだろう。

こんなこと書くなら読書なり英単語暗記なりした方が一層自分の身になるものだが、ここで気持ちを吐き散らす楽しさを見出してしまったからそれどころではない。

そうこうしている間にあとひと駅で着く。

今日もクズなりに、人を思いやって生きよう。せっせせっせ。